2017年7月14日金曜日

合格祝賀会

某司法試験予備校から、司法試験の合格祝賀会にご招待をいただいた。
残念ながら、どうしても日程調整がつかずお断りさせていただいたのだが、今回、おそらく生まれてはじめて「来賓」という形でご招待をいただいたので少し戸惑ってしまった。

もっともモンゴルではいろんな機関や式典からご招待いただくことは、仕事の一つといってもよいくらい非常に多かったのだが、日本では、僕は凡百の有象無象の1人である。多数の招待客の1人としてならともかく、特に来賓として呼んでいただけるような社会的地位も卓越した能力もないことは自分でわかっている。
僕の中での「来賓」イメージは、国会議員とか市長とかPTA会長とかそういう人たちだ。そう思うと、名前負けというか、来賓、には躊躇してしまう。さらに、今回は司法試験合格祝賀会とのことだったが、僕のような司法試験の成績も決してよくなくて弁護士としても優れていない、何も分かっていない人間が何を言うことがあるのだという気持ちもある(どっちかというと反面教師だろう)。

有り難いことに、僕は最近いろいろな場所で講師などをさせていただくことが多いのだが、考えを進めていくと「お前は何を分かってるねん。何を人に偉そうに教えることがあるねん」と、そのへんのことまで自問自答してしまった。もちろん、これは確信を持って言うのだが「私は何も分かってない。何も教えることなど持っていない」が正解なのである。

であるならば、せめて、私の話や講義を聞いた人たちが、少しでも何か前向きに面白い生き方を見つけるきっかけになっていただくように努力しようと、そう思うのだ。

*こういうことを言ったり書いたりしていると「自虐的ですね」とか言われるのだが、自虐ではなくて真実なので間違えないようにして欲しい。あえて言うのであれば「正直ですね」と褒めていただければ嬉しい。
そういえば、ビジネスパーソンは、会社で上司に「わかりません」と言ってはいけないという話を聞いた。私など、わからないことだらけで、法律相談なんかでも当然のように「今わからないので調べて返事します」とかやっているのだから驚いた。わからなくても「私の見解では●●です」と回答するのが正解、とのことだったが、訳のわからない人間が訳のわからない主観を述べたりしたら、状況はますます混沌と化すだけだと思うのだが。よくわからないが、つまり、正しい答えなんか求められていない、世の中、みんながなんとなく気持ち良くなることが重要ということだろうか。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...