2016年7月28日木曜日

モンゴルの民事訴訟

モンゴルの裁判所に6年近く所属して、間近で裁判所をみてきた(とくに民事訴訟)。
はっきり言う。モンゴルで裁判に関わったことのある日本人は、多く「モンゴルの裁判所はクソだ」という趣旨の発言をする。「外国人は絶対に負ける」とも言う。それらご意見について、そういった意見が出てくる根拠も踏まえた上で、ぼくは、「それは違います」と言いたい。

まず、裁判所について完全な公正、完全に客観的な判断を求めているのであれば、僕は、それは日本の裁判所であってもできてはいないと思っている。日本は、今や国際スタンダードに近いアメリカの裁判ですら「アメリカはおかしい」と批判する国だ。それはそれでいい。アメリカには批判すべき点がいっぱいある。ましてやモンゴルの裁判であるならその何十倍も悪いところがあるに違いない。しかし、僕に言わせれば、日本の裁判はアメリカ人からみればやはり十分な批判に値するに違いない。モンゴル人から見てもだ。

つぎに、僕のみるところモンゴルの裁判はまあだいたい意味がわかる。理解できる。そして、外国人は絶対に勝訴できないということも今はない。ここからさらに次の2つのことがわかる。

1つめ。「日本人であるからモンゴルの裁判で不利に扱われている」という発想がおかしい。同じように扱われているモンゴル人もいっぱいいるということだ。司法制度の外の関係性による有利不利はあるだろう。でも、それは、日本人だから、外国人だからという理由ではなく、「そういう関係を持っていない人だから」という、内外国人の区別とは別のところが理由だ。

2つめ。裁判所との関係性の遠近によって負ける場合でも、その際にあからさまにおかしい判決がされるということはない。一定の合理的理由に基づいて判断したり、差し戻したりという行動を、裁判官はとる。事実認定と、それに対する法律のあてはめ、解釈が裁判官の仕事であり、誰に指図されることなくこれらをすることができるのは、近代司法制度の中の裁判官の必須の条件である。事実認定とあてはめと法適用の中で、あきらかに不合理でない限り、裁判官の判断は尊重されるべきだ。そうした点でも、モンゴルはめちゃくちゃではない。一応筋は通している。

こうみてみると、結局、モンゴルの裁判所はそれほどおかしくないし、やり方によっては十分裁判に勝てるということになる。はっきり言って、こちらに十分な理があるならば、賄賂を使う必要はないし、そうしたことは場合によってはかえって有害でさえある。そして、企業活動などで訴訟によるリスクを低く抑えるためには、結局は、司法との関係性を深める必要があるということとなる(または司法制度とまったく関わらないといという選択もありうるがこれはこれでリスクが高い)。つまり、具体的には、裁判所のことをよくわかっている人の意見というのが大切になってくることがおわかりだろう。
裁判で負けた=日本人だからといった思考は、周回遅れだ。

2016年7月25日月曜日

死刑廃止

モンゴルでは昨年末に刑法が改正されている。
刑罰の内容など大改正なのだが、僕が気になっていたのは、死刑制度についてだ。
これまで、モンゴル刑法では死刑が規定されていた。しかし、2010年1月から死刑の執行が停止され、凶悪犯罪には30年の禁固刑が科されていた。

* モンゴルでは1953年~1954年にかけて死刑が廃止されたが、その後法改正で詐欺や交通事故にも死刑が適用された時期もあったという。統計によると、1965年から2005年の間に、裁判所は806人に死刑判決を下しているという。1990年に刑法が改正され、故意の殺人など以外に、死刑は適用されなくなっていた。

死刑については、こんどの刑法改正によって正式に廃止された。
モンゴルで死刑が廃止になる過程で、2010年の執行停止は大きな効果があった。大統領の命令で執行停止がはじまったのだが、このとき、国民の多数は死刑は当然の所与のものとして考えており、死刑廃止についてアンケートをとったとしても決して国民の多数が死刑廃止を是とはしなかったであろうと思われる。大統領の、極端に言えば一存で死刑が停止されたのだが、それから6年も経つと、死刑廃止でもよいという考えに議会(つまり国民)が変化したということだ。改正刑法が議会を可決した2015年末というのは翌年6月に控えた議会選挙に向けた動きが激しくなってきた時期であり、国民から批判を受ける改正であれば多くの議員は賛成しない。

やめてみたら、なんとかなった。

これが死刑というもののような気がする。国民からアンケートをとって死刑は廃止できませんとどこかの国は言っているが、そんなことはない。死刑執行を停止してみることもアリだ。なければないでどうにかなるのであれば、死刑を廃止することに不都合はない。メリットしかない。

*(7月28日追記)
このように書いた直後、相模原で19人が殺されるという凄惨な事件が起きた。このような事件が起こってしまうと死刑は必要だという話になる。ただ、抑止力という観点からは死刑があってもこのような大量殺人はなくならないことが逆に言えると思うし、復讐心という観点からは1人殺人であっても19人殺人であっても被害者にとってはかけがえのない命であり数の問題ではない(たとえば、子が殺されたとして親の復讐心という観点からは自分の子を殺した者を死刑にしてほしいだけで、他人の子については無関係なはずだ)。結局、被害者と直接関係のない他人が、「死刑にすべき」というのは、余計なことであるという気がしている。

2016年7月18日月曜日

大正法律事務所(その2)

大正事務所の広告をどうしようか考えている。問題はWEBサイトを見て電話して来る人の大半がお客さんではなく営業ばっかりだということだ。広告してカネを稼ぐどころかカネを払ってばかりいたら世話はない。

弁護士のWEBページはもはや誰もがやっている基本だと思うが、それ以外にも、看板から始まり、電車やバスに広告している弁護士事務所も多い。最近いいなと思ったのは、私の住んでいる大阪市北区役所には市民の待合室にモニターが設置されていて、近隣の事業者が広告を出している。静止画像が切り替わっていく形で、その中には弁護士事務所の広告もある。役所での広告は公的な感じがしてイメージがよいし、対象者も弁護士事務所と合っているように思う。

ところで、調べてみると、弁護士事務所の広告というのはいろいろと規制が多い。
たとえば、過去に受任した事件、勝訴率といった内容を表示することは原則禁止とされているし、訪問営業や比較広告といった態様も禁止されている。弁護士事務所で「○○相談センター」という名称を記載している広告などは時々見うけるが、これも誤認のおそれがある広告とされている。「専門分野」の記載は駄目(「重点分野」の記載はOK)というところになると、過剰な規制のような気がする。

中には月額数千万円単位の広告費をかけている弁護士事務所もあるようで、それだけ高額の費用をかけても利益が出ているのだろうから、どういうシステムなのかわからないがすばらしい業態というかシステムを作っている人もいるということである。僕は今のところその1000分の1も費用をかけていないが、まあ、地道に仕事を続けて、少しでも大正法律事務所のことを皆さんに知っていただけるようになればと思う。



2016年7月12日火曜日

モンゴル憲法

最近、とある事情があって憲法(日本国憲法)を勉強しているのだが、その過程でモンゴル国憲法がどうなっているのか気になって、少し調べてみた。

モンゴル国憲法は1992年に制定された。前文と70条からなっている。前文は、次のようなものだ(以下、翻訳の間違いがあるかもしれないが許していただきたい)「我々モンゴル国民は、国の独立と主権を強化し、人の権利と自由、正義および国民の統合を志向し、国の伝統、歴史及び文化を継承し、人類の文明が達成したものを尊重し、人間的、市民的及び民主的社会を我が国に建設することを至高の目的として希求しつつ、ここにモンゴル国憲法を宣言する」
民主主義を至高の目的として、モンゴル国の独立、人権尊重、伝統や歴史文化を守るという内容で文句のつけようもない世界的な価値観に沿った内容。

人権規定は、第2章にあり、14条から19条に規定されている。著作権や特許権(16条8号)、環境権(16条2号)、知る権利(16条17号)など日本国憲法には明文にない人権も保障されている点はすばらしいし、老齢者や障害者、出産・育児の財政保障を受ける権利(16条5号)、基礎的普通教育の無償(16条7号)、犯罪被害者の救済(16条14号)といった人権保障規定もある。

国民の義務は次のとおりだ。憲法尊重擁護義務(17条1項1号)、他者の人権の尊重義務(同2号)、納税の義務(同3号)、祖国防衛と兵役の義務(同4号)、労働、健康維持、子の教育、自然環境保護義務(同条2項)。国民に憲法尊重擁護義務を課している点などは、いわゆる「闘う民主主義」か。日本では国民に憲法尊重擁護義務を課すのは立憲主義の趣旨と違うなど批判もあるが、僕はこれはこれでいいと思う。憲法は日本国の法秩序を支配する価値観として公認されているというか嫌でもある程度強制的に適用されるんだから、日本国民に擁護義務を課すことも全然OKと思うのだ。国家が憲法を根拠に成立している以上、立憲主義とも矛盾しないと思う。

これら人権規定と国民の義務規定を概観して思うのは、自民党の改正憲法案のような道徳的な義務を一切課していない点だ。家族の尊重やひいては愛国心といった価値観はたしかに大多数が自然に受け入れられる良い価値観だと思うのだが、ただ、憲法に道徳を持ち込むのは根本的におかしい。その点、モンゴル国憲法は立憲主義の趣旨、国家を国民が縛るという憲法の本質をよくふまていると思う。

国家緊急権の規定(25条2項、3項)や、地方自治に対する国の権限が強いこと(第4章)、一院制で国会議員が76人と少ないこと(第3章Ⅰ)などは、モンゴルの人口が少なく、地方には他民族もおり、臨機応変に国が対応する必要があるといった点、モンゴルという国の事情があるだろう。

日本と違う点で大きなのは、憲法裁判所(第5章)だろうか。抽象的審査制をとっている。
家畜を国民資産として国家の保護としている点(5条5項)などは、世界でも珍しいと思う。モンゴルらしい規定だ。

日本でも問題になっている憲法改正は、発議権者(法案提出兼を持つ組織及び官吏または憲法裁判所)の提案に基づいて、国会議員の3分の2以上の多数に基づいて国民投票を行い、過半数で可決された後、国会議員の4分の3以上によって採択されることになっている(第6章)。非常に厳格な確性憲法である。モンゴルでも2016年あたり憲法改正が問題になっていたが、日本のように改正条項を改正しろという議論はなかったように思う。
僕は個人的には制定権者がそれほど絶対なのかとも思うので、ごく少数説かもしれないが、改正条項を改正するのもアリと思っている。改憲規定の改正だけで実質的同一性が保たれなくなるわけでもないだろう。しかし、真の改正目標である9条改正を実現するために、改正条項の改正を真剣に議論していた日本のやり方というのは、やっぱり姑息な手段と言うしかないだろう。

2016年7月8日金曜日

学生に感謝

僕のような人間でも、たまには人にモノを教えることがある。
たとえば、今日も午前中、大学で労働法の講義をしてきた。
思い起こせば、僕がはじめて人に法律を教えたのは23歳のころだ。公務員試験の受験生に向けて労働法を講義してた。よくかんがえたら、えらく若いときから教えている。

当時の僕は労働法を教えながら自分はロクに働いたこともなく、法律の知識も今以上に拙く(ということは致命的にヤバいということだ)、早口で、あがり症で、講義のテクニックなど全くと言っていいほどなかった。
あれから20年経った今では、これらも多少は改善されていると思うのだが、カネの話をすれば、現在の大学非常勤講師の給料は、20年前のアルバイト講師の給料に遠く及んでいない。まったく改善されていないどころか、減少しているというわけだ。
いかに非常勤講師が劣悪な労働条件にあるかということだが、最近、控室で同僚(といってもほとんどが僕より10歳以上年上)の先生方と話をしていても、コマ数が減らされるとか、不景気な話を聞くことが多い。

非常勤講師はこのように経済的には不遇なのだが、それはそれとして、この仕事でしか味わえない魅力もあると思う。
僕にとって、それはやっぱり大学生とぶつかり合える、若い人の反応を楽しめることだ。
40も過ぎたおっさんの話を何時間も黙って(たまには寝ているとしても)聞いてくれる、まれには質問したりもしてくれる。そんな人間、ましてや若者など、彼ら以外この世に存在しない。なんとありがたいことだろう。たとえば妻子が僕の話をじっと3分でも聞くことなどあるだろうか。いやありえない。
そう考えると、彼らの授業態度などは些末なことに思え、いつも感謝で頭が下がるのだ。

2016年7月1日金曜日

連帯保証

10年ほど前から僕は「連帯保証はおかしい」と言ってきたが、当時は誰も耳を貸してくれなかった。有名人から無名の庶民まで、日本では連帯保証に苦しめられてきた人は余りに多い。金融機関から金を借りるときだけではない。連帯保証は、奨学金を借りるとき、家を借りるとき、就職するとき(正確には身元保証か)、人生のそこかしこについて回っている。

「会社」はそもそも無限責任を回避するためのシステムだ。しかしながら、小企業、零細企業の社長は、会社の借金をするときに必ずといっていいほど連帯保証をさせられる。結局、会社のメリットである有限責任はなし崩しになっている。自分が経営する会社であればともかく、他人の借金の連帯保証をする場合などはもっと悲惨だ。やむにやまれぬ人間関係で判子を押したばっかりに自分が多額の負債を負ってしまい悲惨なことになる。アパートを借りるときも、最近では多くの場合保証会社と契約させられる。連帯保証人を付けた上に、保証会社の保証を付けないと家が借りられない。保証会社に保証料を支払うのは誰かと言えば、いざというときに保証会社から保証金を受け取る家主ではなく借家人である。これらは、保証のメリットを受ける者でなくあくまで弱い者に極限までリスクを負担させる制度だ。利益を得る者がリスク、責任を負わないシステムであり不公平だと思う。

そういうことを言っていたら、当時は、「連帯保証がなければ経済が回らない」とか「そういうものだからしょうがない」とか言われた。言っていたのが銀行員ならまだわかるが、なんと弁護士たちだ。

それが、最近では風向きが少し変わってきている。民法改正でも連帯保証制度は問題になっていたというし、消費者被害を言う弁護士たちも連帯保証について疑問を呈しはじめている。
前提としてあるように見えても、経済政策とか法律とかいうのは人間が作った妄想、フィクションの仕組みであることは疑いのないことであり、どうにでもなるものであるはずだ。それが証拠に、たとえば「お金」は法律上も物ではない。単なる交換価値としての記号にすぎない。

自然と自然法則以外に絶対の前提、真実などない。単なる価値観の問題である。既存の価値観を頭から信じるのは宗教を信じているのと同じだ。どうにでも作り直せるものだと考えて、僕たち1人1人が都合のよい、生きやすい社会を作ればいいだけの話だ。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...