2016年7月25日月曜日

死刑廃止

モンゴルでは昨年末に刑法が改正されている。
刑罰の内容など大改正なのだが、僕が気になっていたのは、死刑制度についてだ。
これまで、モンゴル刑法では死刑が規定されていた。しかし、2010年1月から死刑の執行が停止され、凶悪犯罪には30年の禁固刑が科されていた。

* モンゴルでは1953年~1954年にかけて死刑が廃止されたが、その後法改正で詐欺や交通事故にも死刑が適用された時期もあったという。統計によると、1965年から2005年の間に、裁判所は806人に死刑判決を下しているという。1990年に刑法が改正され、故意の殺人など以外に、死刑は適用されなくなっていた。

死刑については、こんどの刑法改正によって正式に廃止された。
モンゴルで死刑が廃止になる過程で、2010年の執行停止は大きな効果があった。大統領の命令で執行停止がはじまったのだが、このとき、国民の多数は死刑は当然の所与のものとして考えており、死刑廃止についてアンケートをとったとしても決して国民の多数が死刑廃止を是とはしなかったであろうと思われる。大統領の、極端に言えば一存で死刑が停止されたのだが、それから6年も経つと、死刑廃止でもよいという考えに議会(つまり国民)が変化したということだ。改正刑法が議会を可決した2015年末というのは翌年6月に控えた議会選挙に向けた動きが激しくなってきた時期であり、国民から批判を受ける改正であれば多くの議員は賛成しない。

やめてみたら、なんとかなった。

これが死刑というもののような気がする。国民からアンケートをとって死刑は廃止できませんとどこかの国は言っているが、そんなことはない。死刑執行を停止してみることもアリだ。なければないでどうにかなるのであれば、死刑を廃止することに不都合はない。メリットしかない。

*(7月28日追記)
このように書いた直後、相模原で19人が殺されるという凄惨な事件が起きた。このような事件が起こってしまうと死刑は必要だという話になる。ただ、抑止力という観点からは死刑があってもこのような大量殺人はなくならないことが逆に言えると思うし、復讐心という観点からは1人殺人であっても19人殺人であっても被害者にとってはかけがえのない命であり数の問題ではない(たとえば、子が殺されたとして親の復讐心という観点からは自分の子を殺した者を死刑にしてほしいだけで、他人の子については無関係なはずだ)。結局、被害者と直接関係のない他人が、「死刑にすべき」というのは、余計なことであるという気がしている。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...