2021年10月18日月曜日

独生独死独去独来

 「絶対他力」について。精神性というか、個人の生き方、納得の作法としてはそのとおり、おっしゃる通りだと思います。

 わからないのは、世の中は常に変わっているわけで、瞬間瞬間だけでなく、時間軸を、未来・過去を考えるから(究極には死ぬから)煩悩は生まれるわけですが、煩悩がなければ、世の中は変わらないよという点です。

 「絶対他力」はすばらしいと思いますが、現実をより住みよくするという視点と矛盾するようにも思えます(「中道」という葛藤がその答えかもしれませんが、今の私にはよくわからない。)。私の「絶対他力」の理解が浅いのでしょうが、他者とか社会を含めて考えることが難しいと思います。というか、他者や社会を変えようというのは煩悩であるからそもそもそのような独善は全否定されるわけです。

 「自然に変るよ」ということなのかもしれないですが、自然に変るのを待てない人は、煩悩に気付かない「善人」のはず。そんな「善人」ですら往生できるのだから問題ないとも思います。「善人」は必ず存在するから、そういう動きも含めて受け止める。ということもわかります。

 内心の平穏と、社会の平穏がずれることがあると思いますが、それが諦めに至らないためには、自身の煩悩に(できるだけ)気付くよう心掛け、日々を生き、釈迦牟尼を信じて他者を受け入れること以外ないのでしょうか。現状維持(もしくは漸次更新)、生の充実、自己の納得という点ではすばらしい教えなのですが、人間は時間軸があると思い込んでいるのでこの捉え方が難しく、そこに、絶望を超えて「絶対的な救済を信じる」という最大の難関があるわけです(そして、「ほんとに大丈夫っすかね?」と尋ねると、親鸞は「知らんわ。」と答える厳しさ)。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...