2016年12月21日水曜日

愛知大学

【法学会講演会】「法・司法制度および関連機関の機能強化 ―モンゴルにおける法整備支援を中心にして―」
を11月30日に行いました。

当日ご参加いただいた方、ありがとうございました。


愛知大WEBサイトで当日の様子が紹介されております。

http://totoro.aichi-u.ac.jp/law/news/news2016_11.html




2016年11月13日日曜日

「おまえがガンバれよ―モンゴル最高裁での法整備支援2045日」をご紹介いただきました

法学館憲法研究所でも、拙著「おまえがガンバれよ」をご紹介いただいております。
ほんとうにありがとうございます。

Amazonでも品切れが続いていていましたが、最近は継続的に入荷されているようです。
ご利用ください。






「おまえがガンバれよ―モンゴル最高裁での法整備支援2045日」をご紹介いただきました

伊藤塾(資格試験予備校)の伊藤真塾長が、伊藤塾のWEBサイトで拙著「おまえがガンバれよ」ご紹介くださっています(→伊藤塾WBサイト「塾長雑感」)。伊藤塾各校窓口でも販売していただいているとのことで、帯書きのみならず、伊藤真塾長ほか関係者の皆様のこのようなご厚情に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。





2016年11月10日木曜日

草原の風 モンゴル祭 大阪2016

【草原の風 モンゴル祭 大阪2016】が開催されます!たくさんのご来場をお待ちしております!!
岡が総領事館ブースで無料法律相談を行います。モンゴル人、日本人問わず、お気軽にご利用下さい!
◆日 時:11月27日(日)10:30-15:00
◆場 所:靱(うつぼ)公園内、大阪科学技術センター横広場
    (大阪市西区靱本町)
◆最寄駅:大阪市営地下鉄本町駅、28号出口から北へ150M
◆コンサートなどのステージイベント、モンゴル特産品物販、モンゴル料理や日本食の屋台など盛りだくさんです



愛知大学講演会

次の講演会を行います。
ぜひご参加ください。お問い合わせは下記までお願いします。

愛知大学法学会
住所)〒453-8777 名古屋市中村区平池町4-60-6
電話) 052-564-6128 


2016年10月27日木曜日

ポスター製作

大正法律事務所のポスターを製作しました。区役所などに掲示予定です。




2016年10月18日火曜日

おまえがガンバれよ―モンゴル最高裁での法整備支援2045日 書店営業

拙著「おまえがガンバれよ―モンゴル最高裁での法整備支援2045日」ですが、先週は書店を回って置いていただくことをお願いして参りました。


1.紀伊國屋梅田本店様 法律専門書のコーナー。よい場所においていただいています。前週は2段になっていたのを1段に寄せていますので、少しは売れてますね





2.ジュンク堂書店本店様(堂島) 3階法律書コーナーに置いていただいています。目立ってます。




3.MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店様 法律専門書の外国法・比較法コーナーに置いていただいています。この後POPもつけていただきました。ありがとうございます。




4.ジュンク堂難波店様 話題の本のコーナーと法律専門書のコーナーの2か所に置いていただいています。ありがとうございます




5.大阪高裁内ブックセンター(大阪地裁1階書店) こちらも入り口と奥の2か所に置いていただいています。目立ってます。ありがとうございます。


これら以外にも、たくさんの書店様で宣伝していただいています。

残念ながら、Amazonでは、10月18日現在中古品としての販売のみです。新刊入荷はまだ時間がかかりそうです。
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%8C%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%8C%E3%82%88%E2%80%95%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E6%9C%80%E9%AB%98%E8%A3%81%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%B3%95%E6%95%B4%E5%82%99%E6%94%AF%E6%8F%B42045%E6%97%A5-%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E7%94%B7/dp/4906929575/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1476763765&sr=8-1&keywords=%E5%B2%A1%E8%8B%B1%E7%94%B7


下記WEBサイトなどでネット通販も可能ですので入手しにくい方はこちらでご注文ください。

出版社(司法協会)
http://www.jaj.or.jp/books/
※10月いっぱい送料無料

honto
http://honto.jp/netstore/pd-book_28099892.html

紀伊國屋書店
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784906929573

楽天ブックス
http://books.rakuten.co.jp/rb/14508334/

至誠堂書店
http://ssl.shiseido-shoten.co.jp/category/10201610/9784906929573.html



2016年10月6日木曜日

「おまえがガンバれよ―モンゴル最高裁での法整備支援2045日―」販売がはじまっています

「おまえがガンバれよ―モンゴル最高裁での法整備支援2045日―」ですが、アマゾンなどに先行して、一部書店では販売がはじまっています!


ジュンク堂プレスセンター店(霞ヶ関)では、とても良い場所に並べていただいています!!




大阪の某書店では二段平積で先行販売していただいています!!


どうぞよろしくお願いいたします。

2016年10月1日土曜日

新刊 「おまえがガンバれよ-モンゴル最高裁での法整備支援2045日-」


10月はじめに司法協会から拙著「おまえがガンバれよ-モンゴル最高裁での法整備支援2045日-」が発売されます。

一部書店では販売がはじまっています(大阪地裁の書店では納品当日の金曜日夕方から2段平積みにしていただいているようです!)
Amazonでの発売は来週になるようです。

新書版。定価972円。

法律専門書の出版社ですが、新書ですので、一般の方にも読みやすい内容です。ぜひ、ご一読ください。帯書きは伊藤塾塾長の伊藤真弁護士です。

注文は、下記出版社WEBサイトでも受け付けています。10月は送料無料キャンペーン中ですのでお買い得です。よろしくお願いします。


https://www.jaj.or.jp/contact/







印刷業者から出版社に納品された本です


司法協会10月の出版案内のトップにしていただいています!

2016年8月28日日曜日

読売新聞(8月28日朝刊)で、岡弁護士が紹介されています



以下、記事を引用します。

海外法整備 支援20年

 ◇JICA 13か国に専門家

 ◇ベトナム、カンボジア・・・ 現地の文化尊重
 国際協力機構(JICA)が海外に弁護士や法学者らを派遣し、法律を整備する支援を20年にわたり続けている。これまでに、市場経済化を図るベトナムや内戦からの復興を目指すカンボジアなどアジアや中東などの13か国で、民法など約30本の法律を現地の文化に合うよう作り上げてきた。参加した神戸市出身の弁護士らは「体験を日本でも生かしたい」と語る。(初田直樹)
 JICAによると、市場経済化を図る「ドイモイ(刷新)政策」を打ち出したベトナムが1991年、日本政府に、民法制定への助力を求めたのがきっかけだった。
 政府開発援助(ODA)の一環で支援体制が整えられ、JICAが96年に弁護士をベトナムに派遣。その後も要請に応える形で、カンボジアやミャンマーなどアジアと中東の10か国にバックアップを開始し、2010年以降はアフリカの2か国にも広がった。20年間に海を渡った弁護士や検察官、元裁判官などの法曹関係者らは延べ約850人にのぼるという。
 こうした援助の最大の特徴は、現地の文化や実情にあった制度を作り上げることだ。
 民法以外の法整備も進めたベトナムでは、村の有力者が紛争を解決するという和解を重んじる慣習があり、新設した民事訴訟法には、裁判所が初めに和解から検討する規定を盛り込んだ。
 カンボジアでは、約10年にわたって民法の草案作りに対応。内戦で土地の所有関係が混乱した実情に合わせて、条件付きで現居住者に所有権を認めたほか、大量虐殺で壊滅状態になった法曹人材の育成も進め、約650人の裁判官と弁護士、検察官が育った。
 海外からの支援要請を受ける法務省の伊藤浩之・国際協力部教官は「法律や制度を根付かせるには、日本の法律を移植するのではなく、現地の人々が自ら考え、自分たちで維持できることが大切だ。時間がかかる地道な仕事だが、地域の安定や経済活動の拡大にもつながる」と話している。

 ◇テレビ出演で電話相談 モンゴルで5年、神戸の岡弁護士
 「社会を変える法の力を再認識できた」。15年までの5年間、モンゴルで調停制度の導入に関わった神戸市出身の岡英男弁護士(44)が語る。
 市場経済化で金銭や家族関係を巡る訴訟が増えた同国では10年から、話し合いで紛争を解決する調停制度の導入が始まっており、新たな派遣を募るJICAの広告を見て応募した。
 現地では、資料を手作りで用意し、裁判官や弁護士らと会議を重ねた。「国民の負担を減らしたい」と調停を熱望する声に共感し、制度導入に反対する裁判官らに進んで声をかけて、理解を呼びかけたという。
 制度面では、司法への不信感が強い現地の事情を考慮し、調停人が個別に当事者の話を聞くやり方ではなく、当事者同士が同席するのを原則とした。PRのため、遊牧民向けテレビ番組に1年間出演し、電話相談を受ける役割もこなした。
 制度は14年2月から全土で始まり、年末までに約6400件の申し立てがあるなど順調という。岡弁護士は「今後は現地の人たちが工夫し、役に立つ制度に育ててほしい」と話した。
2016年08月28日付け読売新聞(兵庫版)から引用http://www.yomiuri.co.jp/local/hyogo/news/20160830-OYTNT50030.html

2016年8月8日月曜日

離婚と不倫、DV

日本では、弁護士がWEBサイト上で広告する場合、過払請求は別として、離婚が主な広告の対象とされている場合が多い。ネット広告で集客する場合、ネット上の集客から法律相談に至る数の50%以上は離婚事件であるというデータもある。

モンゴルでも、日本と同様、離婚・DVというのは多数の顧客の供給源となる事件だ。モンゴルでは離婚は非常に多い。感覚では3組に1組が離婚すると言われている日本(タイムラグや少子化の関係で実際の離婚割合は一般に3組に1組より低くなりますがそれはおいておいて)よりも離婚割合は多いのではないかと感じるほどだ。モンゴルの調停をみていても、離婚やそれにDVが伴う例というのは多い。

ところで、日本とモンゴルとで決定的に違う点がある。これはモンゴルに住んでいる日本人の多くには周知の事実だが、モンゴルでは不倫の慰謝料請求ができない点だ。モンゴルでは、慰謝料は名誉毀損など特別の場合にしか認められていない。したがって、仮にモンゴルで夫が不貞行為をしても、夫や不貞の相手方に慰謝料請求はできないこととなる。これがよいか悪いかは価値判断の問題だ(これに対しての僕の意見はあるが、業務に差し障りそうなのでここでは述べない)。

さて、そういう事情もあって、大正法律事務所でも離婚・DV等の特設サイトを設けることとした。これまで僕は離婚やDV事件、調停手続に関わってきた。それらの経験を生かす試みだ。お気軽にご相談いただきたい。

ここで注目していただきたいのは、DVを一つの柱にしている点だ。DVの加害者側も必要であれば代理する。これは、僕がこれまで加害者側の代理人として保護命令の発令を取り下げさせた経験や、かつて裁判所で保護命令係を担当していた経験があることが大きい。DVについては、もっともっと言いたいこともあるのだが、やはり業務に差し障りがありそうなのでここで述べることは避けておくこととする。なお、海外出張との関係で時間が合わない場合、緊急性の高いDV事件はお断りする場合もあることをご了承ください。


2016年8月2日火曜日

モンゴルでの権利義務の考え方について

モンゴルの法律家と話をしていて気になるのが、表題にあるような権利と義務についての考え方だ。モンゴルの法律家、弁護士は、常に権利と義務のリストを頭に描いて仕事をしているように思われる。
日本の弁護士は、日常、モンゴルの弁護士ほど権利義務を意識していない人が多いはずだ。これは、日本の弁護士が権利・義務をないがしろにしているのとは違う。たとえば、法律相談をするとき、少なくとも僕は、相談者が望んでいる結果を得るためにどのように法律を組み立てて考えればよいのか、つまり、望ましい結論を得るためにはどのような法律構成で請求を実現していくかという発想で話を聞く。たいてい複数の法律構成がありうるが、そのなかでもっとも実現可能性の高そうな方法を選別することとなる。選別の過程で、相談者の主張できそうな権利、負担している義務についても考慮する。要するに、結果・結論・ゴールを見極めた上で、答えから逆算して手段を思考している。

これに対して、多くのモンゴルの弁護士は、まず、法律上、どのような権利・義務があるのかをリストアップして、そこに依頼者の相談内容をあてはめているような感じだ。この発想でいけば、権利・義務のリストを把握することが仕事の重要な要素になる。ごくおおざっぱに言うと、はじめに権利・義務という手段を把握・選択して、そこから自動的に結論を導き出す思考だといえる。

このような違いはなぜ生じたのか。一つの理由として考えられるのは、判例で法律が事実上修正される日本と、最近までそのような仕組みがなかったモンゴルとの違いだろう。
判例で実質的に法律の修正がなされる日本の場合、法律家の仕事は、既存の法律に物事をあてはめるだけでなく、既存の法律をふまえて新しいロジック(「法」といってもよい)を作ることが最も重要となる。少なくとも僕は、法を既存のものとしてではなく、新しく構成できる人がもっとも偉い法律家だと考えている。たとえば、過払い請求の仕組みを構築したという1点だけでも、U弁護士は、政治家としての能力は知らないが、弁護士としては超一流であるのは間違いないだろう。あくまで僕個人の価値観だが、新しい法解釈を作ることができる人がトップの法律家だ。
これに対し、モンゴルでは、極端にいえば法律がすべてだといえる。法律に書いていないことは駄目、法律に書いていることに事実をあてはめて結論が自動的に出てくる。そして、その「書いてあること」の内容の幅、解釈の余地が日本に比べて非常に狭い。こういう社会では、法律家の関心が、権利・義務、つまり法律にどのような記載があるかという点に集約されるのは当然だろう。

モンゴルの法律の構成もこのような考えを前提になされているように思われる。私自身、モンゴルの調停法や裁判所規則の起草に関わって実感したのだが、冒頭に法律の目的、次に用語の定義があるというところまでは違和感がないのだが、その後に詳細な法律上の権利と義務のリストを掲げる点には、少なくとも僕は、(今では慣れたが)ひっかかった。このようなリストを掲げること自体が無意味ではないか(なぜなら掲げられているすべての権利義務は後の具体的条文をみればわかることだから)というのが主な理由だが、このような権利義務のリストを掲げることで、リスト外の事由が生じたときに問題が起こるだろうという不安もあった。法律は世の中で生じるすべての事象を記載することなどできず、また、相当程度抽象化して書かれているからだ。

僕はここで、良い悪いという話をしたいのではない。どちらが正しいとも思わない(あえていえば、どちらもアリだと思う)。
ただ、モンゴルで(不本意にも)法律問題に直面した日本人は、こういった法律家の発想の違いがおそらく理解できない。現地弁護士との間でトラブルになるおそれなしとも言えない。「モンゴルの裁判所、弁護士がおかしい」と言っていても何も変わらない。
少し広い心で、ある程度は価値観を相対化してモンゴルの法律事情、できれば法律家の発想法を知っていただければ、彼らが実は結構良いことを言っていたなんてことがあるかもしれない、より良い解決方法が探れるかもしれない。

2016年7月28日木曜日

モンゴルの民事訴訟

モンゴルの裁判所に6年近く所属して、間近で裁判所をみてきた(とくに民事訴訟)。
はっきり言う。モンゴルで裁判に関わったことのある日本人は、多く「モンゴルの裁判所はクソだ」という趣旨の発言をする。「外国人は絶対に負ける」とも言う。それらご意見について、そういった意見が出てくる根拠も踏まえた上で、ぼくは、「それは違います」と言いたい。

まず、裁判所について完全な公正、完全に客観的な判断を求めているのであれば、僕は、それは日本の裁判所であってもできてはいないと思っている。日本は、今や国際スタンダードに近いアメリカの裁判ですら「アメリカはおかしい」と批判する国だ。それはそれでいい。アメリカには批判すべき点がいっぱいある。ましてやモンゴルの裁判であるならその何十倍も悪いところがあるに違いない。しかし、僕に言わせれば、日本の裁判はアメリカ人からみればやはり十分な批判に値するに違いない。モンゴル人から見てもだ。

つぎに、僕のみるところモンゴルの裁判はまあだいたい意味がわかる。理解できる。そして、外国人は絶対に勝訴できないということも今はない。ここからさらに次の2つのことがわかる。

1つめ。「日本人であるからモンゴルの裁判で不利に扱われている」という発想がおかしい。同じように扱われているモンゴル人もいっぱいいるということだ。司法制度の外の関係性による有利不利はあるだろう。でも、それは、日本人だから、外国人だからという理由ではなく、「そういう関係を持っていない人だから」という、内外国人の区別とは別のところが理由だ。

2つめ。裁判所との関係性の遠近によって負ける場合でも、その際にあからさまにおかしい判決がされるということはない。一定の合理的理由に基づいて判断したり、差し戻したりという行動を、裁判官はとる。事実認定と、それに対する法律のあてはめ、解釈が裁判官の仕事であり、誰に指図されることなくこれらをすることができるのは、近代司法制度の中の裁判官の必須の条件である。事実認定とあてはめと法適用の中で、あきらかに不合理でない限り、裁判官の判断は尊重されるべきだ。そうした点でも、モンゴルはめちゃくちゃではない。一応筋は通している。

こうみてみると、結局、モンゴルの裁判所はそれほどおかしくないし、やり方によっては十分裁判に勝てるということになる。はっきり言って、こちらに十分な理があるならば、賄賂を使う必要はないし、そうしたことは場合によってはかえって有害でさえある。そして、企業活動などで訴訟によるリスクを低く抑えるためには、結局は、司法との関係性を深める必要があるということとなる(または司法制度とまったく関わらないといという選択もありうるがこれはこれでリスクが高い)。つまり、具体的には、裁判所のことをよくわかっている人の意見というのが大切になってくることがおわかりだろう。
裁判で負けた=日本人だからといった思考は、周回遅れだ。

2016年7月25日月曜日

死刑廃止

モンゴルでは昨年末に刑法が改正されている。
刑罰の内容など大改正なのだが、僕が気になっていたのは、死刑制度についてだ。
これまで、モンゴル刑法では死刑が規定されていた。しかし、2010年1月から死刑の執行が停止され、凶悪犯罪には30年の禁固刑が科されていた。

* モンゴルでは1953年~1954年にかけて死刑が廃止されたが、その後法改正で詐欺や交通事故にも死刑が適用された時期もあったという。統計によると、1965年から2005年の間に、裁判所は806人に死刑判決を下しているという。1990年に刑法が改正され、故意の殺人など以外に、死刑は適用されなくなっていた。

死刑については、こんどの刑法改正によって正式に廃止された。
モンゴルで死刑が廃止になる過程で、2010年の執行停止は大きな効果があった。大統領の命令で執行停止がはじまったのだが、このとき、国民の多数は死刑は当然の所与のものとして考えており、死刑廃止についてアンケートをとったとしても決して国民の多数が死刑廃止を是とはしなかったであろうと思われる。大統領の、極端に言えば一存で死刑が停止されたのだが、それから6年も経つと、死刑廃止でもよいという考えに議会(つまり国民)が変化したということだ。改正刑法が議会を可決した2015年末というのは翌年6月に控えた議会選挙に向けた動きが激しくなってきた時期であり、国民から批判を受ける改正であれば多くの議員は賛成しない。

やめてみたら、なんとかなった。

これが死刑というもののような気がする。国民からアンケートをとって死刑は廃止できませんとどこかの国は言っているが、そんなことはない。死刑執行を停止してみることもアリだ。なければないでどうにかなるのであれば、死刑を廃止することに不都合はない。メリットしかない。

*(7月28日追記)
このように書いた直後、相模原で19人が殺されるという凄惨な事件が起きた。このような事件が起こってしまうと死刑は必要だという話になる。ただ、抑止力という観点からは死刑があってもこのような大量殺人はなくならないことが逆に言えると思うし、復讐心という観点からは1人殺人であっても19人殺人であっても被害者にとってはかけがえのない命であり数の問題ではない(たとえば、子が殺されたとして親の復讐心という観点からは自分の子を殺した者を死刑にしてほしいだけで、他人の子については無関係なはずだ)。結局、被害者と直接関係のない他人が、「死刑にすべき」というのは、余計なことであるという気がしている。

2016年7月18日月曜日

大正法律事務所(その2)

大正事務所の広告をどうしようか考えている。問題はWEBサイトを見て電話して来る人の大半がお客さんではなく営業ばっかりだということだ。広告してカネを稼ぐどころかカネを払ってばかりいたら世話はない。

弁護士のWEBページはもはや誰もがやっている基本だと思うが、それ以外にも、看板から始まり、電車やバスに広告している弁護士事務所も多い。最近いいなと思ったのは、私の住んでいる大阪市北区役所には市民の待合室にモニターが設置されていて、近隣の事業者が広告を出している。静止画像が切り替わっていく形で、その中には弁護士事務所の広告もある。役所での広告は公的な感じがしてイメージがよいし、対象者も弁護士事務所と合っているように思う。

ところで、調べてみると、弁護士事務所の広告というのはいろいろと規制が多い。
たとえば、過去に受任した事件、勝訴率といった内容を表示することは原則禁止とされているし、訪問営業や比較広告といった態様も禁止されている。弁護士事務所で「○○相談センター」という名称を記載している広告などは時々見うけるが、これも誤認のおそれがある広告とされている。「専門分野」の記載は駄目(「重点分野」の記載はOK)というところになると、過剰な規制のような気がする。

中には月額数千万円単位の広告費をかけている弁護士事務所もあるようで、それだけ高額の費用をかけても利益が出ているのだろうから、どういうシステムなのかわからないがすばらしい業態というかシステムを作っている人もいるということである。僕は今のところその1000分の1も費用をかけていないが、まあ、地道に仕事を続けて、少しでも大正法律事務所のことを皆さんに知っていただけるようになればと思う。



2016年7月12日火曜日

モンゴル憲法

最近、とある事情があって憲法(日本国憲法)を勉強しているのだが、その過程でモンゴル国憲法がどうなっているのか気になって、少し調べてみた。

モンゴル国憲法は1992年に制定された。前文と70条からなっている。前文は、次のようなものだ(以下、翻訳の間違いがあるかもしれないが許していただきたい)「我々モンゴル国民は、国の独立と主権を強化し、人の権利と自由、正義および国民の統合を志向し、国の伝統、歴史及び文化を継承し、人類の文明が達成したものを尊重し、人間的、市民的及び民主的社会を我が国に建設することを至高の目的として希求しつつ、ここにモンゴル国憲法を宣言する」
民主主義を至高の目的として、モンゴル国の独立、人権尊重、伝統や歴史文化を守るという内容で文句のつけようもない世界的な価値観に沿った内容。

人権規定は、第2章にあり、14条から19条に規定されている。著作権や特許権(16条8号)、環境権(16条2号)、知る権利(16条17号)など日本国憲法には明文にない人権も保障されている点はすばらしいし、老齢者や障害者、出産・育児の財政保障を受ける権利(16条5号)、基礎的普通教育の無償(16条7号)、犯罪被害者の救済(16条14号)といった人権保障規定もある。

国民の義務は次のとおりだ。憲法尊重擁護義務(17条1項1号)、他者の人権の尊重義務(同2号)、納税の義務(同3号)、祖国防衛と兵役の義務(同4号)、労働、健康維持、子の教育、自然環境保護義務(同条2項)。国民に憲法尊重擁護義務を課している点などは、いわゆる「闘う民主主義」か。日本では国民に憲法尊重擁護義務を課すのは立憲主義の趣旨と違うなど批判もあるが、僕はこれはこれでいいと思う。憲法は日本国の法秩序を支配する価値観として公認されているというか嫌でもある程度強制的に適用されるんだから、日本国民に擁護義務を課すことも全然OKと思うのだ。国家が憲法を根拠に成立している以上、立憲主義とも矛盾しないと思う。

これら人権規定と国民の義務規定を概観して思うのは、自民党の改正憲法案のような道徳的な義務を一切課していない点だ。家族の尊重やひいては愛国心といった価値観はたしかに大多数が自然に受け入れられる良い価値観だと思うのだが、ただ、憲法に道徳を持ち込むのは根本的におかしい。その点、モンゴル国憲法は立憲主義の趣旨、国家を国民が縛るという憲法の本質をよくふまていると思う。

国家緊急権の規定(25条2項、3項)や、地方自治に対する国の権限が強いこと(第4章)、一院制で国会議員が76人と少ないこと(第3章Ⅰ)などは、モンゴルの人口が少なく、地方には他民族もおり、臨機応変に国が対応する必要があるといった点、モンゴルという国の事情があるだろう。

日本と違う点で大きなのは、憲法裁判所(第5章)だろうか。抽象的審査制をとっている。
家畜を国民資産として国家の保護としている点(5条5項)などは、世界でも珍しいと思う。モンゴルらしい規定だ。

日本でも問題になっている憲法改正は、発議権者(法案提出兼を持つ組織及び官吏または憲法裁判所)の提案に基づいて、国会議員の3分の2以上の多数に基づいて国民投票を行い、過半数で可決された後、国会議員の4分の3以上によって採択されることになっている(第6章)。非常に厳格な確性憲法である。モンゴルでも2016年あたり憲法改正が問題になっていたが、日本のように改正条項を改正しろという議論はなかったように思う。
僕は個人的には制定権者がそれほど絶対なのかとも思うので、ごく少数説かもしれないが、改正条項を改正するのもアリと思っている。改憲規定の改正だけで実質的同一性が保たれなくなるわけでもないだろう。しかし、真の改正目標である9条改正を実現するために、改正条項の改正を真剣に議論していた日本のやり方というのは、やっぱり姑息な手段と言うしかないだろう。

2016年7月8日金曜日

学生に感謝

僕のような人間でも、たまには人にモノを教えることがある。
たとえば、今日も午前中、大学で労働法の講義をしてきた。
思い起こせば、僕がはじめて人に法律を教えたのは23歳のころだ。公務員試験の受験生に向けて労働法を講義してた。よくかんがえたら、えらく若いときから教えている。

当時の僕は労働法を教えながら自分はロクに働いたこともなく、法律の知識も今以上に拙く(ということは致命的にヤバいということだ)、早口で、あがり症で、講義のテクニックなど全くと言っていいほどなかった。
あれから20年経った今では、これらも多少は改善されていると思うのだが、カネの話をすれば、現在の大学非常勤講師の給料は、20年前のアルバイト講師の給料に遠く及んでいない。まったく改善されていないどころか、減少しているというわけだ。
いかに非常勤講師が劣悪な労働条件にあるかということだが、最近、控室で同僚(といってもほとんどが僕より10歳以上年上)の先生方と話をしていても、コマ数が減らされるとか、不景気な話を聞くことが多い。

非常勤講師はこのように経済的には不遇なのだが、それはそれとして、この仕事でしか味わえない魅力もあると思う。
僕にとって、それはやっぱり大学生とぶつかり合える、若い人の反応を楽しめることだ。
40も過ぎたおっさんの話を何時間も黙って(たまには寝ているとしても)聞いてくれる、まれには質問したりもしてくれる。そんな人間、ましてや若者など、彼ら以外この世に存在しない。なんとありがたいことだろう。たとえば妻子が僕の話をじっと3分でも聞くことなどあるだろうか。いやありえない。
そう考えると、彼らの授業態度などは些末なことに思え、いつも感謝で頭が下がるのだ。

2016年7月1日金曜日

連帯保証

10年ほど前から僕は「連帯保証はおかしい」と言ってきたが、当時は誰も耳を貸してくれなかった。有名人から無名の庶民まで、日本では連帯保証に苦しめられてきた人は余りに多い。金融機関から金を借りるときだけではない。連帯保証は、奨学金を借りるとき、家を借りるとき、就職するとき(正確には身元保証か)、人生のそこかしこについて回っている。

「会社」はそもそも無限責任を回避するためのシステムだ。しかしながら、小企業、零細企業の社長は、会社の借金をするときに必ずといっていいほど連帯保証をさせられる。結局、会社のメリットである有限責任はなし崩しになっている。自分が経営する会社であればともかく、他人の借金の連帯保証をする場合などはもっと悲惨だ。やむにやまれぬ人間関係で判子を押したばっかりに自分が多額の負債を負ってしまい悲惨なことになる。アパートを借りるときも、最近では多くの場合保証会社と契約させられる。連帯保証人を付けた上に、保証会社の保証を付けないと家が借りられない。保証会社に保証料を支払うのは誰かと言えば、いざというときに保証会社から保証金を受け取る家主ではなく借家人である。これらは、保証のメリットを受ける者でなくあくまで弱い者に極限までリスクを負担させる制度だ。利益を得る者がリスク、責任を負わないシステムであり不公平だと思う。

そういうことを言っていたら、当時は、「連帯保証がなければ経済が回らない」とか「そういうものだからしょうがない」とか言われた。言っていたのが銀行員ならまだわかるが、なんと弁護士たちだ。

それが、最近では風向きが少し変わってきている。民法改正でも連帯保証制度は問題になっていたというし、消費者被害を言う弁護士たちも連帯保証について疑問を呈しはじめている。
前提としてあるように見えても、経済政策とか法律とかいうのは人間が作った妄想、フィクションの仕組みであることは疑いのないことであり、どうにでもなるものであるはずだ。それが証拠に、たとえば「お金」は法律上も物ではない。単なる交換価値としての記号にすぎない。

自然と自然法則以外に絶対の前提、真実などない。単なる価値観の問題である。既存の価値観を頭から信じるのは宗教を信じているのと同じだ。どうにでも作り直せるものだと考えて、僕たち1人1人が都合のよい、生きやすい社会を作ればいいだけの話だ。

2016年6月24日金曜日

モンゴルでの国際仲裁

モンゴルの法律も裁判制度も、外国人にとってはたしかにわかりにくい上に不安定な感じがして、あまり関わりたくないと考える人が多いだろう。モンゴルの弁護士が、SNSで知り合った外国人に自分の職業を教えたら、「ああ、あの法律のない国の弁護士ですか」という返事があったという笑い話?もある(自虐的なジョークだが、僕に言わせれば、こういうことを自分で言えるということは、それなりにまともな国ということだ)。

さて、モンゴルの法律や裁判がちょっと苦手な貴方にも、モンゴルの司法制度は別の紛争解決の選択肢を提供してくれている。調停と仲裁だ。調停については、僕はこの6年近く調停法の制定や制度の普及のために働いてきた。話し合いで紛争解決する制度なので法律や裁判制度を詳細に知らなくても利用できる。手数料も格安である。
今回ご紹介したいのは仲裁だ。モンゴルもいわゆるニューヨーク条約に加盟しているので、モンゴル国立国際仲裁センターの仲裁裁定は日本を含む多数の国で強制執行もできる(もちろんモンゴルでも強制執行できる)。一審制なので解決までの時間を大幅に節約できるし、当事者が合意したら仲裁の言語を日本語にしたり、仲裁で用いる法律を日本法とするようなこともできる。

このような便利な仲裁であるが、利用にあたっては当事者の合意が必要。だから、通常、紛争になっていない、契約を締結する段階で、紛争が生じたら仲裁を利用する旨の条項(仲裁条項)を契約書に入れておくのが望ましい。
モンゴルに進出する日本企業でよくある失敗が、紛争が生じた際の合意管轄を「東京地裁」などとする場合だ。日本で勝訴してもその判決をモンゴルで強制執行できない(逆も同じと思われる)。東京で勝訴しても、モンゴルで強制執行しようとすればモンゴルの裁判所で同じ裁判を繰り返す必要がある。仲裁の場合、相互に執行できるのでこのような問題は生じない。

ところで、国際仲裁、国内仲裁に限らず、仲裁人に登録されているという弁護士や学者は数多いのだが、実際に仲裁人として仕事をしたことがある人というのはかなり少ないと思われる。これは、仲裁事件の数が少ないことが主な原因だ。僕自身も、数年前からモンゴル国立国際仲裁センターの仲裁人だが、これまで実際に仲裁事件を担当したことはなかった。
それが、今年になって、仲裁事件が1件回ってきた。詳細は避けるが日本企業は絡んでいない。第三国の仲裁人として僕が選任された。結局、数回期日を繰り返して、先日、仲裁裁定書を書くことができた。僕は裁判官ではないので訴訟を指揮したことはないが、書記官として裁判官の横でたっぷり訴訟の進め方は見ている。仲裁についても、まあだいたい裁判と一緒と考えて、また、仲裁を行った経験のある弁護士に相談したりして、自分なりに手続を進めることができた。単独仲裁人だったので(通常は3人の合議)、すべての手続を自分で考えて行う必要があって、また、結構積極的に発言するモンゴルの弁護士たちをコントロールしなければならず、緊張もした。
一番驚いたのが、仲裁機関の書記官の有能さだ。僕についてくれた書記官はとても有能で、慣れない僕に対して、手続の進め方や裁定書の記載など丁寧にきちんとお膳立てしてくれた。書記官の能力は、その手続のレベルを反映している。僕も日本の裁判所で4年間書記官をしていたので、記録の作成の仕方や、手続の準備などを見ているとだいたい書記官の能力の想像がつくつもりでいるのだが、仲裁廷の書記官を見る限り、モンゴルの国際仲裁は結構いい線行っていると思う。
あとは通訳をしてくれたモンゴル弁護士などの力も借りて、なんとか、手続をすすめられた。

国内の仲裁を担当することですらかなり珍しいことだと思うので、外国、しかもモンゴルでの仲裁人経験というのはとても貴重な経験だ。仲裁廷を仕切るというのも僕にとっては緊張感があり自分の勉強にもなる。「ほかに事件があったらなんでもやるから回してね」と仲裁センターにアピールしておいた。


2016年6月23日木曜日

無理心中論

一家心中、無理心中を試みて生き残った人に対する刑罰は、一般的に軽くなる傾向にあると思う。たとえば、2005年に発生した中津川一家6人殺傷事件では、犯人は5人を殺しているにも関わらず死刑が回避されている。
理屈はある。家族内の確執から生じた事件であるから再犯可能性は低いし、家族外に影響を及ぼしていないから社会秩序に対する影響も少ないかもしれない。
しかし、被害者の立場からすれば、これはとんでもないことだ。また、1人殺して死刑になる人もいれば、5人殺して無期懲役の人もいるというのは不公平極まりない。「結局、なんだかんだいっても国というのは国民を守っているのではなくて、社会秩序を守ってるんだよ」と冷めた目線になることは、刑法が「殺人」を処罰している本質、つまり生命は大事だよという価値観がウソということになってしまわないか。

そもそも、無理心中という言葉遣いがおかしいのである。僕らはしょっちゅう無理心中という言葉を聞くが、聞き慣れてしまって当然のように受け流している。でも、「無理」に人を殺しているのだから、これは「心中」ではありえない。心を合わせて死んでいない。「心中」は、要するに、曽根崎心中や心中天網島を持ち出すまでもなく、男女の相愛から来ている言葉だ。「無理」とは決定的に矛盾する(刑法的には本当の心中は「同意殺人」になるだろうか)。徳島に「南浜字東浜」みたいな地名があって、どっちやねんと思ったことがあるが、それと同様、いや、それ以上に矛盾している。

この矛盾だらけの「無理心中」という言葉。これが一人歩きすることによって、僕らは「ふーん。無理心中な」と細かい事情も意識せずに納得してしまう。でも、「無理心中」は単なる「一家殺人」であって、決して「心中」ではありえない。さらにいえば、心を合わせていない証拠に、たいての場合無理心中は犯人が生き残る。お前が一番死にたいはずなのに、お前だけが生き残る。性根のことは言わないとしても、客観的な行動としても、完全に言っていることとやっていることが矛盾しているのだ。「残される家族のことを考えると不憫でした」とかいう発言自体がたぶんウソなのだ。

家族を皆殺しにして自分だけ生き残った犯人を「無理心中」と呼ぶことによって、彼の悪性は忘却され、「心中」という言葉に内在する良い面、世間の共感・同情がラベリングされる。そして犯人は裁判では適当な反省の弁を述べるがそれは上っ面の反省だ。本当の反省があるのなら、犯人が生きることは最も反省のないことの証だ。今からでも遅くはない、自殺を図るのが本来の筋だ。西郷隆盛は月照とともに錦江湾に入水して生き残ったが、「生きることが償いです」などとあほなことは言っていない。もちろん本気で死のうとしたのだ。

日本には、「パチンコは賭博ではない」「飛田新地では自由恋愛が行われている」「自衛隊は軍隊でない」といった欺瞞がまかり通っているが、僕たちがもっと正直になるためには、それらと同様の「無理心中」という訳のわからない、いや、むしろ真実をゆがめる有害な言葉を使わない、「家族殺人」「子殺し」「親殺し」と言い直すことからはじめてみたい。

2016年6月22日水曜日

司法試験の合格者について

いまだに「オカさんは新しい司法試験で合格したのですか?」と質問なさる人がいる(新しくなって何年経ってるねんという話だがそれはおいておく)。こういう質問をするのは、だいたいがお客さんではなくて、単なる知り合い程度の人だ。
彼らの質問の趣旨はわかっているつもりなので「はい、そうなんですよ。だいたい50%も合格した第1回の新司法試験で合格しました!」「昔の難しい試験では到底合格できないんでラッキーでした!」「ちなみに大学院も学歴ロンダリングです!」といったことをランダムに回答していく。要するに、彼らが言いたいことを先回りするのだが、それでも、「最近は弁護士さんもたいへんですね」とか頑張ってかぶせてきていただけるのはありがたい。もちろんこちらとしても「生きていくのがやっとです」とフォローも忘れていない(念のために、僕のこれらの回答は心から真実だと思っていることだ)。

さてさて、以上の不毛極まりないやりとりからも明白なとおり、要するに、弁護士というのは弁護士以外からはたいへんに嫌われている仕事です。そこで、なんとか日本社会で生きさせていただくために、僕らはなにをしたらいいのかという話をしたい。

僕は、弁護士人口を増加するのはこれは非常に重要なことだと思ってきた。弁護士がかつてのような特権的な仕事でなくなるとともに、これら嫉妬やねたみや非難や恐怖心は、徐々に薄まり、弁護士は社会の一員として受け入れられるのではなかろうか、と。
しかし、そうはいかなかった。弁護士が増加すればするほど弁護士に対する非難というか、馬鹿にする傾向がむしろ増加しているように思われる。ということは、遠回しに「収入低いですね」と馬鹿にされるということは、まだまだ弁護士は権威だということである。みなさん○○業の人にそういう言い方はしないわけだ。

にもかかわらず、最近では日弁連もが新司法試験の合格者の減少を提言し、1500人程度まで合格者を減らす方針となっている。愚かしいことだ。弁護士はもっともっと増やして、いまさら「新ですか?」とかいう質問もあほらしいくらいの状態にならなければならない。いっぱい弁護士いますけど何か?収入低いですけど何か?学歴ロンダリングですけど何か?新試験ですけど何か?と当然のように堂々と問い返すことができる程度にならなければ意味がない。司法試験合格者を減らせというのは弁護士業界での王道の主張だが、僕は基本的にこれはくだらない、ウソだらけの主張だと思っている。だから、それがまかり通っているようではこれまでの弁護士(法曹)制度の繰り返しがなされるだけであり、そういう意味では、冒頭のような失礼極まりない問いかけに回答しているのも、自業自得、税金みたいなもんと考えるしかないのかもしれない。

2016年6月19日日曜日

モンゴル往復はしんどいけど楽しい

今回は完全に個人的な「気持ち」を書こうと思う。

僕は最近頻繁に仕事でモンゴルと日本とを往復する生活をしている。

最近は、大阪を昼の便で出てソウルまで行き、ソウルで6時間ほど待ってからウランバートルに深夜日が変わるころに到着する、というパターンでモンゴルに行き、10日前後モンゴルで仕事をして、帰りは、深夜日が変わるころにウランバートルを出発してソウルに行き、ソウルで朝4時から9時ごろまで待ってから大阪に昼ごろ戻るという、こういう旅程のことが多い。
たいてい、翌日の朝1で大学の授業が2コマ連続してあり、前週休講しているからその補講を翌々日の朝1から2コマ連続して行う。そんなことをしながら日本で3週間弱過ごすと、またモンゴルに行く時期になる・・・・
ほぼ毎月10日以上(1年では120日、約1/3)はモンゴルにも住んでいることになるが、こんな感じでモンゴルと日本両方で仕事ができるというのは、しんどいけれど楽しい。

いや、正確に言えば、仕事はほとんどモンゴルでのものだ。僕が、JICAの契約が切れてから直面したのが、どうやって食っていくかということだ。これはもう自分で稼ぐしかない。モンゴル滞在の主目的は大使館の仕事をすることなのだが、これだけで家族を養える金額はもらえない。だから、日本に事務所を作ることにした。しかし、6月1日に法律事務所を開いてはや20日が経つが、事務所に来て仕事を依頼してくださったお客さんはまだ1人もいない。ありがちだが、保険や書籍やインターネット広告の営業の人が来ただけである。僕には、日本での収入というのはほぼない。

結局、僕の収入の90%以上はモンゴル関係で成り立っていることになる。逆に言うと、日本の弁護士というだけでは、僕には今現在ほとんどニーズがない状態だ。というわけで、今のところ日本の仕事については(大学以外は)考慮しなくて良いので、モンゴル関係の仕事に力を注ぐことができている。モンゴルの仕事は、とっても時間と労力がかかるのだが、仕事しながら勉強させてもらっていると思うことにしている。
このように、僕は今の状況にそれほど不満はないのだが、とはいえ、近い将来「日本の仕事がいっぱいでモンゴルに行く時間がどうしても作れない!」と言えるようになりたい。

2016年6月9日木曜日

労働契約の期間(モンゴル)

労働契約における期間の定めというのは、重要な問題である。
一般的に、日本でもモンゴルでも期間の定めのある労働契約よりも、期間の定めのない労働契約のほうが労働者に有利だ。これは、期間の定めがない場合には、いつでも労働者は辞職できる反面、使用者は解雇が容易に認められないことが主な理由だ。

さて、モンゴル労働法には、正規雇用の労働者は期間の定めがないものとすると規定している。季節労働者、産休育休などの代替労働者、試用期間といった特に期間の定めをすることが合理的な場合を除いては、期間を定めた雇用契約が締結できないようにも思われる。

これは、使用者にとっては結構めんどうな規定だ。
アルバイトとかパートタイムとか言われる、時間単位で給与計算して雇用する労働者を使いたい場合というのは時々出てくる。そんなときに、期間の定めができないとなると、これは非常に困ってしまう。
一応、労働法にも、労働者と合意すれば正規雇用であっても期間を定められるとあるのだが、この合意というのがくせ者で、裁判所でもなかなか認められない。労働者が自分に不利益な期間の定めを受け入れるというのはきわめて例外的な場合に限られるとされているからだ。

アルバイト、パートタイム労働者について、モンゴルでは事実上合法的に雇用できないのではないか?
実を言うと、最近まで僕もそう考えていた。
しかし、最近は雇用できるという扱いに法律実務上でもなってきているようだ。

どういうことかというと2つくらいの説があるらしい。
1つは、そもそも「正規雇用の労働者」にアルバイトやパートタイマーはあたらないという説である。
もう1つは、「正規雇用の労働者」にあたるが、合意を比較的緩やかに考えるという説である。
前者は、モンゴル労働法があえてアルバイトやパートタイマーについて記載しなかったのはこれらを正規労働者にすべきと考えていたからと思われること、後者は、合意を厳格に考える最高裁の解釈などと異なる理解であることから、それぞれ批判は可能である。

しかし、これらの労働者を雇用する実際の必要性が強いことはすでに見たとおりであるし、期間の定めを設けてもよいと国立大の教官も述べるようになっている事実からは、現状はモンゴルではアルバイトやパートタイマーを期間を定めて雇用しても、問題にならなくなっているのではないかと思われる。
小さいことだけれど、実際に現地で事業を行う人にとっては結構重要な変化だといえるだろう。

2016年6月3日金曜日

大正法律事務所(大阪市大正区の弁護士事務所)

しばらくこのブログの更新をしていませんでした。

私は、昨年(2015年)12月に調停プロジェクトは終了し、2045日間に及んだJICA専門家業務を終え帰国しました。
ただ、その後も、在モンゴル日本大使館の日系企業支援業務委託弁護士として、毎月1週間程度の期間モンゴルに滞在して、日本企業の皆様の法律相談などをしています。


さて、このたび、私は、大阪市大正区に「大正法律事務所」を設立することとなりました。(WEBサイトはこちら→http://www.taisho-law.com/
大正区には現在弁護士事務所がありません。地域の皆様に密着したサービスの提供を目指します。モンゴル法関係の業務を引き続き力を入れたいと思います。
どうぞ、大正法律事務所をよろしくお願いいたします。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...