2016年8月2日火曜日

モンゴルでの権利義務の考え方について

モンゴルの法律家と話をしていて気になるのが、表題にあるような権利と義務についての考え方だ。モンゴルの法律家、弁護士は、常に権利と義務のリストを頭に描いて仕事をしているように思われる。
日本の弁護士は、日常、モンゴルの弁護士ほど権利義務を意識していない人が多いはずだ。これは、日本の弁護士が権利・義務をないがしろにしているのとは違う。たとえば、法律相談をするとき、少なくとも僕は、相談者が望んでいる結果を得るためにどのように法律を組み立てて考えればよいのか、つまり、望ましい結論を得るためにはどのような法律構成で請求を実現していくかという発想で話を聞く。たいてい複数の法律構成がありうるが、そのなかでもっとも実現可能性の高そうな方法を選別することとなる。選別の過程で、相談者の主張できそうな権利、負担している義務についても考慮する。要するに、結果・結論・ゴールを見極めた上で、答えから逆算して手段を思考している。

これに対して、多くのモンゴルの弁護士は、まず、法律上、どのような権利・義務があるのかをリストアップして、そこに依頼者の相談内容をあてはめているような感じだ。この発想でいけば、権利・義務のリストを把握することが仕事の重要な要素になる。ごくおおざっぱに言うと、はじめに権利・義務という手段を把握・選択して、そこから自動的に結論を導き出す思考だといえる。

このような違いはなぜ生じたのか。一つの理由として考えられるのは、判例で法律が事実上修正される日本と、最近までそのような仕組みがなかったモンゴルとの違いだろう。
判例で実質的に法律の修正がなされる日本の場合、法律家の仕事は、既存の法律に物事をあてはめるだけでなく、既存の法律をふまえて新しいロジック(「法」といってもよい)を作ることが最も重要となる。少なくとも僕は、法を既存のものとしてではなく、新しく構成できる人がもっとも偉い法律家だと考えている。たとえば、過払い請求の仕組みを構築したという1点だけでも、U弁護士は、政治家としての能力は知らないが、弁護士としては超一流であるのは間違いないだろう。あくまで僕個人の価値観だが、新しい法解釈を作ることができる人がトップの法律家だ。
これに対し、モンゴルでは、極端にいえば法律がすべてだといえる。法律に書いていないことは駄目、法律に書いていることに事実をあてはめて結論が自動的に出てくる。そして、その「書いてあること」の内容の幅、解釈の余地が日本に比べて非常に狭い。こういう社会では、法律家の関心が、権利・義務、つまり法律にどのような記載があるかという点に集約されるのは当然だろう。

モンゴルの法律の構成もこのような考えを前提になされているように思われる。私自身、モンゴルの調停法や裁判所規則の起草に関わって実感したのだが、冒頭に法律の目的、次に用語の定義があるというところまでは違和感がないのだが、その後に詳細な法律上の権利と義務のリストを掲げる点には、少なくとも僕は、(今では慣れたが)ひっかかった。このようなリストを掲げること自体が無意味ではないか(なぜなら掲げられているすべての権利義務は後の具体的条文をみればわかることだから)というのが主な理由だが、このような権利義務のリストを掲げることで、リスト外の事由が生じたときに問題が起こるだろうという不安もあった。法律は世の中で生じるすべての事象を記載することなどできず、また、相当程度抽象化して書かれているからだ。

僕はここで、良い悪いという話をしたいのではない。どちらが正しいとも思わない(あえていえば、どちらもアリだと思う)。
ただ、モンゴルで(不本意にも)法律問題に直面した日本人は、こういった法律家の発想の違いがおそらく理解できない。現地弁護士との間でトラブルになるおそれなしとも言えない。「モンゴルの裁判所、弁護士がおかしい」と言っていても何も変わらない。
少し広い心で、ある程度は価値観を相対化してモンゴルの法律事情、できれば法律家の発想法を知っていただければ、彼らが実は結構良いことを言っていたなんてことがあるかもしれない、より良い解決方法が探れるかもしれない。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...