2016年7月1日金曜日

連帯保証

10年ほど前から僕は「連帯保証はおかしい」と言ってきたが、当時は誰も耳を貸してくれなかった。有名人から無名の庶民まで、日本では連帯保証に苦しめられてきた人は余りに多い。金融機関から金を借りるときだけではない。連帯保証は、奨学金を借りるとき、家を借りるとき、就職するとき(正確には身元保証か)、人生のそこかしこについて回っている。

「会社」はそもそも無限責任を回避するためのシステムだ。しかしながら、小企業、零細企業の社長は、会社の借金をするときに必ずといっていいほど連帯保証をさせられる。結局、会社のメリットである有限責任はなし崩しになっている。自分が経営する会社であればともかく、他人の借金の連帯保証をする場合などはもっと悲惨だ。やむにやまれぬ人間関係で判子を押したばっかりに自分が多額の負債を負ってしまい悲惨なことになる。アパートを借りるときも、最近では多くの場合保証会社と契約させられる。連帯保証人を付けた上に、保証会社の保証を付けないと家が借りられない。保証会社に保証料を支払うのは誰かと言えば、いざというときに保証会社から保証金を受け取る家主ではなく借家人である。これらは、保証のメリットを受ける者でなくあくまで弱い者に極限までリスクを負担させる制度だ。利益を得る者がリスク、責任を負わないシステムであり不公平だと思う。

そういうことを言っていたら、当時は、「連帯保証がなければ経済が回らない」とか「そういうものだからしょうがない」とか言われた。言っていたのが銀行員ならまだわかるが、なんと弁護士たちだ。

それが、最近では風向きが少し変わってきている。民法改正でも連帯保証制度は問題になっていたというし、消費者被害を言う弁護士たちも連帯保証について疑問を呈しはじめている。
前提としてあるように見えても、経済政策とか法律とかいうのは人間が作った妄想、フィクションの仕組みであることは疑いのないことであり、どうにでもなるものであるはずだ。それが証拠に、たとえば「お金」は法律上も物ではない。単なる交換価値としての記号にすぎない。

自然と自然法則以外に絶対の前提、真実などない。単なる価値観の問題である。既存の価値観を頭から信じるのは宗教を信じているのと同じだ。どうにでも作り直せるものだと考えて、僕たち1人1人が都合のよい、生きやすい社会を作ればいいだけの話だ。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...