2017年6月7日水曜日

「接待」ですらない国際協力

私は昨年出版の著書のなかで、JICA専門家の仕事について「接待」であると書いた。
しかし、最近さらに考えが変わった。JICA専門家やJICAボランティアの仕事というのは(ボランティアは「仕事」ではないが)、「接待」ですらない。

典型的なODA、国際支援のイメージというのは、貧困や治安の回復であったりすると思う。アジアの貧しい農村で農作業の改善を行ったり、医療の普及を行ったりしているというのが、JICAの青年海外協力隊や専門家に対する一般のイメージだろう。

私は、モンゴルの調停は、このようなイメージではくくれないところに違和感を感じ、接待に徹しようと考えた。つまり、モンゴルの調停というのは、生活レベルの最低限の底上げではなくて、なくてもよいがあればより便利なモノの提供だと考えたからである。

今年2017年の春募集のJICAボランティアのポスターがある。私はこれをはじめミャンマーのJICA事務所で見たのだが、その後、地下鉄の中など国内でもあちこちで見る機会があった。

お分かりのとおり、ブータンの卓球隊員である。さて、ブータンに卓球というのは、これはもちろんあってもいいのであるが、ボランティアとは何かという問題に直面しないのかと疑問になる。必要とされる程度の問題であり、それは、医療等と比較するにしてもあくまで相対的なものであるはずだが、それにしても、あまりに露骨すぎないだろうか。これでは相手国が望むことの提供、つまり「接待」になっているかどうかすら疑わしいだろう(一部の人が喜んでいればそれでよいのかという問題でもある)。「ブータン」と「卓球」の取り合わせが、すくなくとも私には理解できない。

これは、もはや、日本の若者に対して、途上国に「ボランティア体験をさせていただいている」、「途上国という場を提供してもらっている」といってよい。
結局、せめて相手国のためであること、せめて接待であるところが正当化の大きな要素であったはずのODAだが、相手のためどころか「自分達のため」に税金を使い、それを「国際貢献」と自画自賛している。ODAの金に群がる専門家やコンサルタント、日本企業と同じことで、いまさらなのかもしれないが、非常にひっかかる。

もちろん、このポスターには深い意味が織り込まれているのかもしれないが、少なくとも、私には「?」と感じられ、思わず笑ってしまうとともに、いろいろと考えさせられたのだ。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...