2016年6月23日木曜日

無理心中論

一家心中、無理心中を試みて生き残った人に対する刑罰は、一般的に軽くなる傾向にあると思う。たとえば、2005年に発生した中津川一家6人殺傷事件では、犯人は5人を殺しているにも関わらず死刑が回避されている。
理屈はある。家族内の確執から生じた事件であるから再犯可能性は低いし、家族外に影響を及ぼしていないから社会秩序に対する影響も少ないかもしれない。
しかし、被害者の立場からすれば、これはとんでもないことだ。また、1人殺して死刑になる人もいれば、5人殺して無期懲役の人もいるというのは不公平極まりない。「結局、なんだかんだいっても国というのは国民を守っているのではなくて、社会秩序を守ってるんだよ」と冷めた目線になることは、刑法が「殺人」を処罰している本質、つまり生命は大事だよという価値観がウソということになってしまわないか。

そもそも、無理心中という言葉遣いがおかしいのである。僕らはしょっちゅう無理心中という言葉を聞くが、聞き慣れてしまって当然のように受け流している。でも、「無理」に人を殺しているのだから、これは「心中」ではありえない。心を合わせて死んでいない。「心中」は、要するに、曽根崎心中や心中天網島を持ち出すまでもなく、男女の相愛から来ている言葉だ。「無理」とは決定的に矛盾する(刑法的には本当の心中は「同意殺人」になるだろうか)。徳島に「南浜字東浜」みたいな地名があって、どっちやねんと思ったことがあるが、それと同様、いや、それ以上に矛盾している。

この矛盾だらけの「無理心中」という言葉。これが一人歩きすることによって、僕らは「ふーん。無理心中な」と細かい事情も意識せずに納得してしまう。でも、「無理心中」は単なる「一家殺人」であって、決して「心中」ではありえない。さらにいえば、心を合わせていない証拠に、たいての場合無理心中は犯人が生き残る。お前が一番死にたいはずなのに、お前だけが生き残る。性根のことは言わないとしても、客観的な行動としても、完全に言っていることとやっていることが矛盾しているのだ。「残される家族のことを考えると不憫でした」とかいう発言自体がたぶんウソなのだ。

家族を皆殺しにして自分だけ生き残った犯人を「無理心中」と呼ぶことによって、彼の悪性は忘却され、「心中」という言葉に内在する良い面、世間の共感・同情がラベリングされる。そして犯人は裁判では適当な反省の弁を述べるがそれは上っ面の反省だ。本当の反省があるのなら、犯人が生きることは最も反省のないことの証だ。今からでも遅くはない、自殺を図るのが本来の筋だ。西郷隆盛は月照とともに錦江湾に入水して生き残ったが、「生きることが償いです」などとあほなことは言っていない。もちろん本気で死のうとしたのだ。

日本には、「パチンコは賭博ではない」「飛田新地では自由恋愛が行われている」「自衛隊は軍隊でない」といった欺瞞がまかり通っているが、僕たちがもっと正直になるためには、それらと同様の「無理心中」という訳のわからない、いや、むしろ真実をゆがめる有害な言葉を使わない、「家族殺人」「子殺し」「親殺し」と言い直すことからはじめてみたい。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...