2017年4月13日木曜日

何でも面白がれと

講演会の枕原稿です(2017.4.8伊藤塾)。このとおりには実際は話せていませんが、だいたいこんな話をしている。

「私なんかの話を聴きに、これだけの皆さんに集まっていただきまして、感謝です。

私は、人の話を聴くっていうのには3つほどパターンがあるように思います。1つは、嫌々聴く。聴かざるを得ない。上司の説教とか、まあ、学校の授業とかがそうですかね。これはこれでしょうがないというか、意味はあるわけですが、2つめは、ためになりそうだから聴く。そういう人もいらっしゃいます。3つめは、面白そうだから聴くとなる。

2つめと3つめは似ています。それぞれ自分の利益のために聴いてる。しかし、2つめの聴き方は、私はよくないと思う。ためになるかならないか、大抵の話というのは、それがすぐに役立つわけではありません。また話す人、先生が間違っていることも往々にしてあると思います。その場合、ためになると思ってかえってためにならないかもしれない。
どうせなら、3つめの聴き方。面白がるのがよいのではないかと思います。言い方を変えると、これは私のこれからの話にもつながるのですが、2つめの、ためになろうとして聴くのは、貪欲です。欲深い。それに対して、面白がって聴くのは、陽気なだけで欲がない。運が向いてくるのも2つめよりは3つめの聴き方だと思います。

話は変わって、私のほう、つまり話し手のほうからの考えを述べますと、2つめの、ためになるような話というのは、まず、私できません。私は人様に教えられるような人間ではない。基本的に無理な話、キャパを越えてるのであります。
ただ、3つめの面白い話にしようとは常時心がけています。成功しているかどうかわかりませんが。せめてわざわざ私なんかの話を聴いてやろうという人には、面白がって貰おうといつも思っている。それは、この講演会だけでなく、大学の授業でもそうですし、仕事の現場でもそうです。できるだけ面白くなってもらおうと考えて弁護士の仕事すらしている。

笑いは、「緊張と緩和」とか言いますが、人を面白がらせる方法というのは、要するにギャップです。笑いに限らず人に変化を起こさせる要素というのは段差、ギャップだと思います。具体的には、私の話を皆さんに分かりやすく楽しんで貰おうとすれば、人の悪口を言うか、自分を落とすか、それくらいの方法がまあはじめに思い浮かぶ。私は「おまえがガンバれよ」という本を書いたのですが、その中で、JICAの批判と、自分を落とすことの2つをこの本の中でやりました。意識的に。その両方ともがJICAには気に入らなかったようです。悪口を聞き流せないのは、馬鹿な優等生だからですが、私が自分自身を落とすことについても、専門家が自分を卑下する、自虐的なというだけではなくて、要するに、自分たちまで落とされたような気持ちになってる。馬鹿ですね。

ちなみに、自分を落とすとき、私は本心からそうしています。それは笑いを取るためでもあるが、自分に対する反省でもある。お前は、何ほどの者なのか、何でもないではないか。たんなる馬鹿な小太りのおっさんではないかという気持ちを常に持っておきたいと思っています。

で、「おまえがガンバれよ」という題名ですが、これは、私は、要するに「ガンバるな」と言いたかったんですね。無理してガンバったってろくなことにならないよ。引っかき回して悪くしてるだけだよ。せめて自分の無力さに自覚を持て。そう言ってる。ガンバらないでもらったほうが多分世の中はうまくいったりする。自戒も込めてそう言っている。そして無理なガンバりの代わりに来るべきなのが、なんでも面白がる精神です。

今回の講演会でも、私は単なるモンゴルのお話をするだけでなくって、話のテーマを決めようと思いました。つまり、今回のテーマは「何でも面白がれ」ということです。なるだけ面白がって、何事にもおもしろみを見つけながら生きれば、楽だし、成功する。これが私の言いたいことです。」





年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...