2017年4月29日土曜日

日本の司法は清廉か?

ということで。まったく自分の損にしかならない投稿を続ける訳です。
よく法整備支援業界では日本の司法の清廉性は類を見ないと言って自慢している。
私はこれにものすごく違和感を持っている訳だ。

ある人は、江戸町奉行の月番制(南北月交代で業務)に起源があるのではとか言っている。月番で2つの奉行所が競争していたから賄賂がない?馬鹿言うなよ。
あり得ない話で、江戸の賄賂については、田沼時代を出すまでもなく常識であり、江戸町奉行は賄賂しまくって渡り鳥しているはずであるし、与力以下は職業固定されているものの、こちらも上手にまたは悪辣に賄賂をとっていたことは、たとえば、三田村えん魚とか佐久間長敬でも読めばすぐにでもわかる話のはずだ(佐久間に至っては与力である。丁寧に難しい民事事件での賄賂の取り方も教えてくれている)。

まあ、こういった珍説・妄言は無視するとしても、まず、日本とどこを比較して日本が清廉だと言っているんだという疑問もある。比較対象はイギリス、アメリカといったいわゆる先進国であるべきで、その中で日本は必ずしも特別裁判官が清廉というわけではないだろう。戦後「収賄罪」で有罪となった裁判官は、被告関係者から現金などを受けとり懲役1年(執行猶予3年)となった名古屋地裁判事、刑事被告人と情交したことで懲役1年の実刑となった小倉簡裁判事がいるらしいが(板倉宏「賄賂の話」中公新書)、それ以外にも、収賄がらみで弾劾裁判になった事案からだけで引用しても、現地調停で供応を受けた厚木簡裁判事(罷免)、ゴルフ接待等を受けて収賄で逮捕(起訴猶予)された東京地裁判事補兼東京簡裁判事(罷免)がいる。いかにもハードルが高そうな弾劾裁判でもこれだけるのだから、実際は他にもたくさんあるに違いない。明らかにならないだけである。

要するに、日本が特別賄賂がないわけでもないだろうし(他の先進国も同じようなもの)、それを特段自慢することでもないだろうと思うのだ。日本も社会が発展途上の段階では、おそらくものすごい数の賄賂があったはずである。

日本は、元々、元来、賄賂文化である。聖徳太子の17条憲法を読めば分かる。その5条を訳すと次のとおり。「五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなるだろうか。近ごろ訴訟に携わる者たちは、賄賂をとることが常識となり、賄賂をみてからその申し立てを聞いている。裕福な者の訴えは石を水中に投げ込むようで容易に聞き入れてもらえるのに、貧乏な者の訴えは水を石に投げ込むようで全然聞き入れてもらえない。貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。これは官吏としての道にそむくことである」。まだまだ実例は挙げられるのだが、国際協力に関係する法律家たちは、こういった歴史的事実に対してまったく知識が欠けているうえ、自分の経験とイメージだけから勝手に日本の司法の清廉性を信じ込んで、他人(外国人)に語っていることが多すぎると感じている。善意の馬鹿でありまったく始末に悪い。

年齢を意識する

 高校の同窓会の案内が届いた。卒業後30年以上経ってはじめての同窓会である。同級生は皆50歳を超えている。生憎、所用で参加できないのだが、いまだに14歳のときから考えていることはほとんどおんなじで年齢を意識することなどほとんどないぼくも、ああ、おじいさんになったのかとしみじみする...